100年後には私も死んでいる。
嫌いな人がいたら、こう↑思えばいい...最近snsでよく見かける言葉である。
100年後、相手も私もこの世にはいない。
そんな先のことをお気楽に考えられるようになるのは、正直かなり難しい。
だって、こんなにもしんどくて何も出来ないのに、相手は旅行に行って楽しんでいる。
食べる気力がないのに、「新鮮な野菜を食べて元気にならなくちゃ。」と笑う。
100年後じゃなくて1年後にいないことが確定するのなら、気にしないでいられるのに。
恐ろしくも、毎日そんなことばかり考えていた。
少しだけ前向きに生きられるようになり、相手のことを考える時間が減ってきた。
その理由を、姑自身が教えてくれた。
夫の父方のおばあちゃん、姑の姑が亡くなって10年ほど経つ。
亡くなっているのに、《気にしている》姑がいる。
こんな苦労をした とにかく頑張った 何にもしない人だった 子育てまで口を出す人だった
恨みつらみの言葉が、溢れてくる。
近くで見ていると、その感情の恐ろしさや無意味さに気付かされた。
私は、姑の事を考えないように生活しようと決めた。
近くにいるから、どうしたって視界に入るが、見て見ぬふりをする努力も忘れない。
考えない→許すではないが、考えることさえ労力がいることにも気がついた。
イライラしたら眠れない。
体力の無い私にとって、一大事である。
100年後だなんて・・・。
私の一分一秒が惜しい。待てない。
心の中から消すほうが、早い。
夫も、私の徹底したほうけぶりに少し呆れているようである。
作戦、大成功!。
でも、母のことはなかなか消せない。
作戦、継続中。